代わりはいるもの

http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20121031/1351686158

 引用の仕方がよくわかんないのでURLだけ貼っておきますが、リンク先の記事の大まかな内容は『カッコよく消費することよりもカッコよく生産することが重視される時代になる』的な雰囲気です。

 なるほどと思うようなそうでもないような、ツッコミどころ多いようなでもッツッコんだら負けのような気がするのでやめときます。

 それでもどうしてもこの記事を読んでからモヤモヤした気持ちが消えなくて。なんでだろう? と考え続けた結果、気づいたことを書いておきます。

 私は消費することを楽しむ側で、その消費する側って誰でもいいのよね。つまり「消費者としての私」の代わりはいくらでもいるのよね。

 このことはけっこう前から気づいていて、どうにか生産する側(代わりがきかない存在)にまわれないものかと小説を書いてみたり作詞をしてみたりそれなりにやってみた。けど自分には、(一時的にではなくそれを生業とできるレベルの)生産する側にまわるための、才能も努力する力も絶望的に足りてないことにわりと最近気づいてとてもガッカリしたのね。

 自分は単なるいち消費者であり、それは私じゃなくてもいい。これってけっこうシビアなことで、でも多くの人々がそれをしっかり受け止めながら生きている。大人になるってそうやって、シビアな現実を受け止められるようになることなのかもしれない。だとすれば私はようやく大人のスタートラインに立てたのかもしれない。三十代半ばにしてようやく。

 ああでも、やっぱり残念に思えてならない。この残念な気持ちがモヤモヤの正体だったんだろうな。

 けど、よく考えてみたら、生産する側からすれば、消費してくれる人は確かに誰でもいいけれど、誰であろうと自分が生産したものを選んでくれた時点でその人は特別な存在と言えるのかもしれない。

 まあだからって「選んでやったんだぞ」「金出してやってるんだぞ」という態度をとるのはとってもかっこ悪いから気をつけなきゃね。